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2010年9月30日

元塾長の「辛口」教育談義 -「あまのじゃく」氏の教育エッセイ

かつて某塾の塾長を勤めていた「あまのじゃく」氏の教育エッセイです。

雑感
脳トレ
教育ママゴンVSモンスターペアレント
教育産業は恐怖産業
思考タイプと動作タイプ
子どものタイプ
「俺は男だ!」VS「ジェンダーフリー」
女々しい男を育てているのは誰か?=母親か?!
教育と恐怖
兄弟姉妹のタイプ
教師の世代交代
読書や読解指導の明暗
幼稚園児と小学1年生
お父さんお母さんVSパパ・ママ
許可制
若き講師へ
生徒からのサイン
モチベーショントーク
定番トーク
補習とは何?
エンパシー
声かけ
補習の功罪
小心者
授業の本質
もらったら返す
段取り力

段取り力(若き講師へ)

若き講師へ:段取り力仕事は段取り八分、仕事二分と言われるように、用意周到な準備が必要である。しかし、現代は段取り力を持った人間が少ないと言われている。
そこで、段取り力をつける簡単な例を述べよう。

「社会人だから体調を崩すといけないので休日は翌日にそなえてゆっくり休んでおくように。」とか、「指示された仕事が終わらないなら休日にするように。」などという古い考えが塾経営者にはよくある。
私から言えば、その通りに行う社会人は一見優等生のように見えるが、そのせいで休日に外出する機会を無くしたりして、見聞を広めることができなくなっているのではないかと心配になる。指導者には鮮度の高い見識が要求される。休日こそ絶好の見識を広めるチャンスなのだが。

私は、休日・休暇には前もって予定を入れることが多い。休日・休暇中は楽しみ・気分転換をしたい。もちろん見識も広めたい。
だから、休日までにどうやって今ある仕事を片付けるかを考え、無理な量も工夫すればなんとかなると考え抜くことで段取り力を発揮する。
単純に余裕のある時間に先送りしていくこととは根本的に違う。相当、考えなければ仕事を完了できない。こんなことからでも、段取り力は身に付くのである。

(2009.7.3)あまのじゃく


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もらったら返す(若き講師へ)

若き講師へ:もらったら返すある生徒との会話の中で、「この前のテスト結果が悪かった。」というので、「次、頑張ればいいじゃないか。」と応答すると、「だって、お父さんお母さんが『お金ばっかりかかって・・・』と言うんだもの。」と返され、私は一瞬言葉に詰まった。

そこで、「大きくなって親孝行すればいいさ。みんなそうだったんだから。だから、今は自分ができることを一生懸命することが大切だよ。」と返答した。

塾教師は、ほとんどの家庭で、同じことを言われていると思って指導にあたるべきだろう。

親は目に見えることでしか評価をしない。当然である。まずは、志望校に合格させること。次に、学力伸長が数字で見えること。それから、子どもが親に言われなくても自発的に机に向かうようになったとか生活態度が変化したとか、とにかく何かを返していれば、親は子どもにお金がかかるとは言わないかもしれない。

生徒の小さな心を傷つけないためにも、親にそんなことを言わせないためにも、親と子の間に立った仕事をしている自覚を持って、そして、もらった分以上を返すことを達成すべく、日々仕事をすべきである。

(2009.4.2)あまのじゃく


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小心者(若き講師へ)

若き講師へ:小心者 私は、権力者が弱い立場の者をその権力を利用して事を有利に運ぼうとか、屈服させようとかする事に嫌悪感や憤りを覚える方だ。今風に言えば「パワハラ」である。
 小心者に限ってそういった類のことをする。
 私の経験でも、同等、あるいは上位者とまともに戦えない者が、自分より下位者や下級と思える者に偉そうな態度を見せ付けたり、指示・命令を出すことによって、周りに自分は権威があると見せ付ける光景を嫌と言うほど見てきた。

 教育界は、まさしくこういった事が起こりうる。
 教師は、そういった立ち居振る舞いを決してしてはならないが、知らず知らずに事を起こしているかもしれない。よく過去をよく振り返ってみることも必要だ。先生と生徒というだけで上述の構図はできあがっているから、教育界に従事し、誇りを持ちたいなら、権力者意識を捨てる事だ。

 小心者は教師には一番向かない。

(2008.12.1)あまのじゃく


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補習の功罪(若き講師へ)

若き講師へ:補習の功罪補習=できない生徒対象というのが一般的である。
しかし、「できない生徒」の特定は難しい。偏差値が60でも30でも、親にとっては「できない子ども」なのだ。

だから、私が思う補習は、

(1)できるだけ全員を対象に行い、常に上位生向けに補習の授業をして下位生を引き上げるようにする。そうしなければ、上位生が伸びず、クラスのムードも低位で推移する。
(2)特定の生徒を、どうしても補習しなければならない場合は、その生徒と他の2・3人を呼び、次はその2・3人を別の生徒に順次代えていく。これにより不公平感を与えないし、競争原理も働く。
(3)補習時間をよく考える。上位生でも集中力は3時間が限界であろう。塾によっては、ここぞとばかりに休日の朝から補習していることもあるようだが、生徒の身はひとつ。教師が気合い十分でも生徒がついてこない。もし、ついてこられるようであれば、授業に緊張感、集中力がないということになる。
(4)何から手をつけたらよいか、わからない生徒もいる。私なら、問題を解かせながら「これはできなくてはいかん。これは捨ててもいいぞ。」と取捨選択して今後の学習の方向性を示す。
(5)全体の成績が下降している場合は補習をいくらしても無駄である。教師のチーム力が怠っていると生徒達の勢いに反映する。教師同士のウマが合う、合わないは、プロとして関係ない。生徒中心にじっくり教師間での想いをぶつけ合い、指導方針を確立することが先決。

以上が効果の見込める補習かもしれない。

(2008.10.2)あまのじゃく


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声かけ(若き講師へ)

若き講師へ:声かけ私は指導者として生徒への「声かけ」が一番重要だと思っているので、常に全員に目配りして声をかけることを指導の最優先にしている。
人間誰しも存在感が必要だ。その意味で、誰かが自分に声をかけてくれることは、その人が自分を見ていてくれるという存在感を感じるのである。そして、安心感や満足感などにもつながっていると思う。
不思議なことだが、生徒への声かけを徹底していくと、生徒との「信頼関係」が築かれていっていることを強く感じる。

ただ、差別無く全員に声をかけようとすればするほど、絶えず一人ひとりを意識していなければ、その一人ひとりにあった「かける言葉」も思い浮かばないし、声をかけても心に届かないだろう。
そこで、声をかける時誰もが陥りがちなことは、声をかけしやすい生徒とそうでない生徒ができてしまうことだ。
理由としては、生徒の情報量の差や授業中の態度などで教師側が偏見を持ったりするからだ。
しかし、私的なことならよいが、教師という仕事では生徒への差別は困る。
教師は、私情を捨てて、意識して生徒に積極的に声をかけ続けることで、声かけを習慣のように努力する義務があると思う。

(2008.9.3)あまのじゃく


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エンパシー(若き講師へ)

エンパシー私も人の子であり、親だ。だからと言うわけではないが、私は生徒に手を上げないし、理不尽に怒らない。また、日頃のかかわりかたも、一生懸命生徒を想って行動しているつもりである。正直、自分が親になって自分の子どもにされたら嫌なことは誰の子でも同じだと思ったからだ。

実は一度だけ、若い頃、生徒を叩いたことがあった。
虚しい、心が痛む、後味が悪い。言い表せない心の打撃を受けた。
そこで若い教師には、「子どもがいないとしても、他人に自分の親や兄弟姉妹が理不尽に罵倒されたり、果ては叩かれたりしたら、同じように嫌ではないか。」と体罰はもちろん言動による生徒への言葉の暴力も厳しく指導する。

よく、EQ(心の知能指数)の高い・低いは、そういった想いを感じ取り、人の心を心地よくし、癒せるように行動できるかどうかと言われる。
私は、自分の言行が自分の身内に発しても恥じることなく、そして、反感・クレームをかうことがないということを規準にしている。
共感性=エンパシーが、最終的にサービス業の頂点に立つことができる最終競争なのだから。

(2008.7.17)あまのじゃく


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補習とは何?(若き講師へ)

補習とは何?保護者から「子どもが十分に理解できるよう、補習をしてほしい。」という要望が直接的にも間接的にもあがる。
教師ならば「では、補習をしましょう。」と言いたくなる場面である。
だが私は、どんな親にもある"何らかの形で子どもにかかわりたい"と願う気持ちが「補習」という表現となったのであって、「補習」を直接望んでいるわけではなかったと当時も今も思っている。

その一方で、「補習をする、しない」は何を基準に判断すればよいかがわからず、したがって私は「補習」をほとんどしなかった。
要するに、成績下位の生徒の親だけが「補習」を望んでいるわけではなく、成績上位者の親でも望んでいるわけで、50点なら補習で90点なら補習は必要ないなどと決めることができない。補習する生徒だけを特別扱いしているように思えるし、第一、補習に呼んだがために「自分はやっぱりこの科目が駄目なんだ。」と生徒に烙印を押すことにでもなるならしないほうがよい。
それに、生徒が理解できないような授業をする教師が再度授業して本当に効果があるのだろうか。まずいラーメンをもう一杯食べろ!というようなことと同じではないか。

こういったことから私は、授業をしっかり行い、親にも協力してほしいことやかかわってもらいたいことを率直に伝えることで、親子ともに効果を上げた。
だから、親に対して「私がすべて行います。親御さんはお子さんに勉強のことは何も言わなくても結構です。もし、お子さんが理解できない時は補習してでも理解させますから。」などと、一見教師に強い責任感があるように思わせるようなことを言う教師を私は一流とは思わない。

(2008.06.16)あまのじゃく


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定番トーク(若き講師へ)

定番トーク 保護者からよくある質問が「基礎」と「応用」の違いだ。
例えば、算数・数学なら、「基礎」は計算で「応用」は文章題などが定番の説明ではあるが、「もっと保護者にわかりやすく伝える自分流の説明方法はないだろうか?」と考えた人はいるだろうか。
 
ここで、「定番」というのは、マニュアルに書かれたような最低限のことを指す。
よく、「マニュアル的言動・行動は人間味がない。」とか「マニュアル人間はいらない。」などと言われるが、なぜだろうか。
私が思うに、定番だけで仕事をする人は、接する相手皆に「次に言うだろう言葉や、するだろう動作がわかってしまう」ので、面白みがないからだと思う。
特に、教育業界は人間相手であるから、一律に定番が当てはまらないし、生徒・保護者の予期せぬ言行に即座に対応するには、マニュアル頼りでは心もとない。故にマニュアルは通用しにくい。

では、逆に、なぜマニュアルは必要なのだろうか。
簡単な話で、最低限しなければならないこと、してはならないことを組織全体に徹底するためである。塾ならば、その塾のどんな教師からも受けることができる最低限のサービスを保証するのだ。
そこで現代はどこの塾でもマニュアルがあるが、もちろんそれを実践するだけでは生徒は集まらない。
前述の基礎・応用なら、その生徒の具体的事例を挙げるとか、国語の先生が算数のことも説明できるなど、それ以上の内容で勝負しなければよりよい内容を提供する同業他社へ生徒は流れる。
であるから、入塾のファーストコンタクトである電話や来訪での問い合わせに対する応対は、マニュアルによる回答だけでなくその相手に適したものである必要がある。

したがって、常に自分のトークを磨く努力がいるが、なかなか難しい。
自分で考えることができなければ先輩・上司の口調を真似するところからスタートすべきであろう。また、自分の日常受けているサービスから得るものもある。
電話の応対の結果、保護者が足取り軽く塾に出向いてくれたのか、まだ不安な状態で出向いてきたのかで、自分がマニュアル人間か脱マニュルアル人間かがわかる。

(2008.05.15)あまのじゃく


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モチベーショントーク(若き講師へ)

モチベーショントーク近頃、スポーツ界で「モチベーション」という言葉が多く使われるようになったからか、教育業界でも「モチベーショントーク」が隆盛している。コーチング技能としても必須の内容かもしれない。

 そこで、教師が、勉強に対する意欲喚起をはかる上にも動機付けの話をすることは、決して悪いことではない。

 しかし、私から見れば「モチベーショントークもどき(・・・)」、下手をすると「マスターベーショントーク」がほとんどと言える。ひどい場合は、「俺が小学生の時は・・・・」と教師の生い立ちまで聞かされる。

 そんな小手先の小話より、授業でしっかり指導し、生徒が理解できたときにオーバーアクションで誉めることの方が未熟なモチベーショントークに優ることがわからないとは。先生と呼ばれる人種ほど「裸の王様」が多い所以である。

 生徒に成り代わって言いたい。「馬鹿野郎!!早く授業を始めて、成績を上げてくれ!」と。

(2008.03.25)あまのじゃく


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教師の世代交代(雑感)

教師の世代交代そろそろ、子ども達を取り巻く環境は「勉強不足」「学力低下」から「勉強量を増やそう!」という方向へ一直線のようです。

確かに、昭和40年代の子どもと比較すると当時の半分ほどの教科書内容ですから、親としてそういった報道を見れば見るほど不安になります。
しかし、それよりも、現在の若手教師自身が「ゆとり教育」で育ってきたのですから、昭和40年代の教師より指導技量が不足していてもおかしくありません。(私も人のことを言えるほどではありませんが。)

今までは、子どもの時代に学習量が多い世代の教師が、その半分の学習量を生徒に指導するわけですから、何とかなったのです。しかしこれからは、下手をすると学習量の少ない教師が、自分が学んだことより多い学習量を生徒に指導することが有り得るのです。
そのため、残念ですが、わが子には「他力本願的な教育」を望まず、教育環境を選択して与えていくという親の懸命な、賢明な教育方針が必要な時代になったと言わざるを得ません。

(2009.03.06)あまのじゃく


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教育と恐怖(雑感)

教育と恐怖「基本が出来ていませんね。」「基礎がわかっていません。」など、教育の世界ではよく使われる言葉です。

では、「基本・基礎」とはいったい何を指すのでしょうか。そして、「応用」はどういったものでしょうか。

たとえば、算数の場合、「基本は四則混合計算ができること・基本的な知識があること」で「応用は文章題や図形の問題を計算や知識を使って解くことができること」でしょうか。難しい話ですね。

以前、ある問題集の基本問題・標準問題・応用問題を切り分けて、どの問題がどのレベルかわからないようにして問題を並べて、基本問題・標準問題・応用問題に分けるようなテストを教師に課したことがありますが、各教科とも全問正解者がいませんでした。それほど、区分けは難しいものです。

また、不注意なミスと基礎を理解していないことは全く違うのです。
例を挙げれば、「時速4kmで30分歩いたら、何km進みますか?」という算数の速さの問題で、120kmという答えを出した子どもは計算ミスではなく、基礎を理解していないことになります。

あるいは、テストで何点なら基礎を理解していることになり、100点でなければ応用力がないということが言えるでしょうか。

親御さんがどう考えるかで基礎力・応用力の捉え方が随分違ってくるものなのです。

(2008.11.06)あまのじゃく


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女々しい男を育てているのは誰か?=母親か?!(雑感)

脳トレ母親は男の子のことが本当にわからなくて困っているはずです。
なぜなら、母親は女であって、男ではないからです。また、母親に兄や弟がいなければ、成人男性しか男の生態を知らないからです。
したがって、何につけても男の子へ加減が全くわからないために、ついついその加減を聞いてしまうことになります。

例えば、食事の量でもそうです。腹具合もそうです。何もかも心配してしまいます。そのためか、男の子は返事だけで事が済んでいきますので、しゃべる必要がなくなっています。だから、話法が退化していて、しゃべりの下手な、表現の下手な男の子が急増していると思うのです。

そのためか、相手が自分の思いを聞いてくれると勘違いしているので、相手が何か言うまで待っている男の子が多いのです。
勉強の質問も視線で送ってきます。正直、気持ち悪い行為です。過去には、教務室の窓口から私に「質問があります」というのに、2週間かかった男子生徒もいました。窓口の周りをうろつく姿は毎日見かけるのですが、声を発するまでに実に2週間かかりました。異様な光景です。

このような状況にならないためには、まずは、母親は子どもが何か言うまで待ち続けることです。表現が下手なら何度でも聞くことです。決して先回りして代弁したりしないことです。
思春期になれば、ヒゲも生え、汗臭い男へ変身するのです。
かわいい、かわいい子どもでなくなる前に子離れしましょう。トビがタカを育てるの精神で。

(2008.09.19)あまのじゃく


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「俺は男だ!」VS「ジェンダーフリー」(雑感)

「俺は男だ!」VS「ジェンダーフリー」最近は、生まれ変わるなら「女性」という回答が半数を超えるようです。オリンピックでも女性の躍進が目立ちます。これでよいのか日本男児(大和魂)と言いたいのですが、なぜにこうも男性が弱くなったのでしょうか。

中学受験をしようとする家庭でも、私立中学校へ「いじめ」「不登校」などの質問をする方が目立ち始めているようです。男子校を受験するのに。
わが子への心配は限りがありませんが、男子校に対するこういった質問は論外だと私は思います。
男子校のよさは、思春期に異性を気にすることなく自己表現ができ、何かに没頭できることが挙げられます。バンカラ気質も残っているはずです。 

さて、男社会には使ってみたい言葉が多いです。「おれ」「バカやろう」「おやじ・おふくろ」など様々な男言葉と言えるものがあります。
幼稚園児でもどこから覚えてくるのかわからないほど、男言葉をたくさん使っています。
これは、女性には到底理解できないことでしょう。
そこで、粗暴と粗暴もどきは違うことを理解してほしいものです。
闘争心は元々あるもので、万民を愛することは不可能なことです。
しかし、ウマが合わないからといってウマの合わない相手を攻撃することは許されないことを幼児期にしっかり指導すればバランスのとれた子どもになるはずです。
近頃は、「男らしく」「男らしさ」などの言葉が封印されています。
しかし、その「らしく」「らしさ」の追求が「自律」「自制」を求めることになると確信しています。

(2008.07.31)あまのじゃく


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思考タイプと動作タイプ(雑感)

思考タイプと動作タイプ自分は「考えるのは好きだが、コツコツ覚えるのは苦手」というタイプなのか、「考えるのは嫌いだが、コツコツ覚えるのは好き」というタイプなのかがわかるという心理テストがあり、塾の中学生に試してもらいました。

これは、電化製品などを購入した際、操作しながら操作を覚える人と取扱説明書を読んでから操作する人とがいるのを判別するというようなものではないかと私は勝手に今でも思っています。

試してもらった理由は、思考タイプ・動作タイプが判明すれば、それなりに的確な指導方法が出来ると思ったからです。もちろん、私も興味を持って受検しました。

例えば、保護者から「計算させると5問程度で飽きてくる。」、「6問過ぎると計算間違いが多くなる。」、「漢字や英単語、社会の用語などを覚えるのが苦手。」、「算数の文章題や図形問題や国語の読解問題の記述などはほとんど空白。」「難しいと感じたら最初からあきらめる。」などの要望があります。その場合、タイプが判っていれば、それなりの対応をすることで保護者に理解を求めることができます。

さて、その結果は。

どちらのタイプにも成績優秀者もいれば、成績が芳しくない者まで、ある程度均一に存在していましたので、当然ですが思考タイプ・動作タイプは頭の良し悪しではないことが判りました。また、学力別のクラス内で分析しても同様でした。

したがって、集団指導の中でタイプ別に対応するのは難しいという結論に達しました。では個々に対応しようと思ったのですが、はじめからバランスが取れている人間はほとんどいないわけですから、極端なタイプでもなければ無理強いして修正しようとするほど、子どもを混乱させることになります。

ですから、ご家庭で親御さんからお子さんに対して、
(1)勉強(思考か動作か)させる内容の時間配分を変える
(2)勉強させる順番を変える
(3)勉強させる手法を変える
などを助言されることお薦めします。

でも、思考でもコツコツでも、要は勉強に対しての「辛抱強さ」が必要ですね。

(2008.05.30)あまのじゃく


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教育産業は恐怖産業(雑感)

教育産業は恐怖産業 子どもの教育は親自身の不安と恐怖との戦いです。
 親は、子どもが生まれる前には五体満足でと祈ります。しかし、生まれるととたんに「話したか」「歩いたか」「字を読んだか」「字を書いたか」「・・・」。不安や恐怖に近いものになってきます。その中でも「勉強」は他と比較しても異常とも言える程の不安が募ります。

 「水泳で25m泳ぐことができるか、できないか」であるなら、泳げるにこしたことはありませんが、別に泳げなくても親としてはどうってことはありません。しかし、勉強はできないでは済みません。

 したがって、学校や塾の先生から「このままでは先々厳しいですよ。」「家庭教師をつけた方がよいかもしれません。」「毎日、ドリルを○○ページはしないと大変なことになりますよ。」「週2回2時間では理解できませんね。週4回4時間は必要です。」「このままでは○○学校の合格は難しいです。」など、不安に駆られる言葉を連発されると親はどうしてよいかわかりません。

 ひどい教育機関や教師ほど、その類の発言をして親の考えや意見を封じ込めます。
つまり、自戒を込めて申し上げるなら、教育機関は恐怖感で親をコントロールできるのです。

 ですから、わが子のためにも親はその恐怖に打ち勝ってほしいものです。
 親はいつまで経っても全員が子育てに関しては初心者マークです。
 子育ての様々な情報は収集するが、それに振り回されず、わが子を信じ、強い意思を持って事に当たるしかありません。
 僭越ですが私自身も、現在、一人の親として実践しています。

(2008.04.25)あまのじゃく


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2010年9月28日

教育ママゴンVSモンスターペアレント(雑感)

モンスターペアレント私の学生時代に「教育ママゴン」という言葉がありました。
それは、「偏差値教育」の真っ只中の時代に「勉強しなさい!勉強しなさい!」とわが子に吠える母親達の総称です。

出現の背景には、その時代の母親達の多くが戦中・戦後世代で、自分達が「戦争」の犠牲となり「青春がなかった世代」であり、勉強したくとも出来なかったことに加えて、戦後の国の復興過程で「学歴=富」が約束されるような風潮があり、わが子にかける想いが強かったからだろうと推測します。

片や、現在のモンスターペアレントは母親だけでなく父親にも当てはまり、「勉強しなさい!」というわが子へ激励ではなく、わが子かわいさに周りにゲキを飛ばしているものすごい親を指し示すらしいです。心当たりはありませんか。

私は、過去に数千人の保護者と接してきました。その中で、教育ママゴンは多数相対しましたが、モンスターといえるのは2組程度だったでしょうか。
保護者の本当の要望は2割程度、8割はただのわがままでした。

わが子のことになると後先関係なくなって感情的に言行に走ってしまうのが親というものです。
ですから、会ってじっくりお話しをすると、私の考えを理解していただき、自分が言い過ぎたと反省される保護者が多かったです。

ただ、保護者をうるさいと感じ、宿敵ととらえる教師がいると話がこじれます。説明責任を放棄する教師がモンスターペアレントを出現させると言ってもいいかもしれません。

教師には保護者相手のタフな交渉術が求められますが、そのタフさが現代の多くの教師にはなくなり、「あの親には言っても無駄。」では。  

私にとっての親御さんは、子どもの一時期を共に愛情をもって育てる「同志」でした。そう思ってコミュニケーションをとっていました。お互いに非難し合っても事が先に進みませんから。

「鬼子母神」は出産や育児の神様として有名ですが、そうなる前は「モンスターペアレント」であったことに間違いはなく、神様でも自分の子どもが一番愛おしいわけです。
親は、最後には、わが子を「社会に役立つ人間」として自立させる義務があるのです。
その事を念頭に置いた教育ママゴンやモンスターペアレントであれば、誰が何と言おうが、いいのではないでしょうか。

(2008.02.20)あまのじゃく


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